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空想と妄想の境界線
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観せるのか、魅せるのか。
ショウとスポーツの鬩ぎ合いに涙する者の集い、
空想と妄想の境界線。

というわけでF1アメリカGPが行われた訳です。
非常事態とも言えるような状況の中でですが。

20台中6台でのスタート。
サーキットに響き渡るブーイング。
コース上へ投げ込まれるペットボトル。
そして痛々しいほどの表彰式。

原因がミシュランであることは間違い無い。
しかしGPが今回のような事態になったのはFIAにも問題がある。
これはF1が「スポーツ」なのか「ショウ」なのか不明瞭であることが問題なのかもしれない。

スポーツとして見ればFIAの考えは正しい。
ルールに厳格であることは必要不可欠だ。
ショウとして見ればミシュランの対応は間違っていない。
柔軟な対応でレース自体を成功させることが観客に対する責務だろう。

結果としてGPはルールに則った正常な形で進行した。
ただそれが観客にとって到底満足できるものではなかっただけのこと。
安全性を重視したミシュランの考えは否定できない。
人を死に追い遣る行為がショウとして認められる訳がないのだから。
最低限の安全が保障されるからこそショウはショウとして成り立つのだ。

今後必要になるのはスポーツでありショウでもあるという矛盾をどのように変えていくのか。
アメリカのモータースポーツでは比較的ショウという要素を優先させている。
しかし主体となるヨーロッパ社会の気質が原因か、F1ではそういった概念に否定的な事が多い。
今回の事態からF1の方向性がスポーツかショウに定まっていくならそれも良い。
だがこれまでの歴史から考えれば、結局なにも変わらずに進行すると予想できる。
このような状況ではF1の低迷は避けられまい。
今回の騒動は体質の改革を行うには丁度良い機会だ。
是非とも今後のF1のあり方を明確にしていただきたいものである。

それができないのならば、GPWCでの刷新に期待するしかないのかもしれない。
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